第47回目のゲストは、植物を人工的・立体的に形づくる造形物「トピアリー」の企画・施工や、トピアリー文化の普及につとめる株式会社ネバーランドインターナショナル代表であり、NPO法人日本トピアリー協会代表理事・宮崎 雅代(みやざき・まさよ)さんのインタビューです。テーマパークや庭園、商業施設などで、立体的に刈り込まれた樹木のオブジェを見たことはないでしょうか。植物を人工的・立体的に形づくる造形物のことを「トピアリー」といいます。じつは起源の古いトピアリー。古代ローマ時代に、建物の延長線上にある庭園を彩るものとして用いられていたといいます。その後、ヨーロッパの王侯貴族の邸宅や別荘を中心に広がっていき、近代以降は博覧会やテーマパークといった市民向けの場にも開かれていきました。宮崎さんに、トピアリーとの出会い、家庭を持ちながら仕事として広げていく中での葛藤や人とのつながりについて、お話を伺いました。
アメリカのディズニーランドで「トピアリー」と出会う
――宮崎さんが最初にトピアリーと出会ったきっかけは?
宮崎さん:学生時代にアメリカへの短期留学中、ロサンゼルスのディズニーランドではじめてトピアリーを見ました。当時は「トピアリー」という名前も知らず、「夢の国ってこんな感じか〜」とさらっと見ただけでしたが、後になって「ああ、あれがトピアリーか」と思い出しました。
短大卒業後は損保会社で働きましたが、22歳で結婚退社し、23歳で出産しました。4年制大学に進んだ友だちは、これからどの学科に進もうかと話している一方で、私は妊婦。当時は友だちに会うのがすごく嫌でしたね。「一生働くぞ」と思って就職率のいい短大に行ったのに、「なんでこんな人生を歩んでいるんだろう」と、後ろ向きになっていた時期でした。
――お子さんが小学校に入学されたころ、ポプリの講座を受講し、講師になられたんですよね。社会復帰のステップだったんでしょうか?
宮崎さん:大阪在住の母から突然電話があって「私の行きたいポプリの講座が東京であるから、代わりに行ってくれない?」っていわれたの。「子育てもいいけど、いい加減なにかやりなさい」って。「ええ、なにを勝手なこというの」って思ったけれど、長男が小学校一年生になる年だったから、一緒に一年生になるのもいいかもと通うことにしました。
そして、講座で出された宿題の参考資料を探すために洋書店に通っていたら、偶然トピアリーを題材にした本に出会いました。ここで、留学中にアメリカで見かけたトピアリーを思い出したんです。
――トピアリーと再会したんですね。
宮崎さん:講座でポプリの講師資格は取得したものの「これじゃ食えないな」と思い、フラワーアレンジメントやアロマテラピー、ハーブなど、ポプリから派生するさまざまな資格取得に励みました。
――家庭の主婦としての任務を全うしつつ、講座で得た知識も趣味程度ではなく、ビジネスとしてちゃんと成り立たせて「食っていく」ことを目指していらっしゃったんですね。
宮崎さん:自分で税金を払ってこそはじめて大人だ、という思いがありました。20歳で就職した当時はクレジットカードだってつくれたのに、結婚したらそういうのが一旦全部なくなってしまって。家計は夫が管理し、毎月生活費として決まった金額を受け取っていたので、なにか一つ買うのにも「買っていい?」と、その都度お伺いを立てなければなりませんでした。就職していたときは同級生で一番稼いでいたはずなのに、おかしいな。私はなにしてるんだろう? って。
子どもはすごく大事だし、人生観が変わるし、授かったことはありがたいことだし、なんてしあわせなんだろうっていうのはある。でも、それとこれとは話が違うんですよね。
捨てられる農産物をオブジェに。
アグリクラフトをつくる仕事の広がり
その後、資格を生かして講師としての指導やデパートのディスプレイ制作など、宮崎さんの活躍の場はどんどん広がっていきました。中でも「アグリクラフト」とよばれる、余剰農作物として捨てられる農作物を使用した造形物を通し、活動に転機をむかえます。
――「アグリクラフト」をはじめたきっかけはなんだったんでしょうか?
宮崎さん:『全国農業新聞(全国農業会議所 新聞業務部発行)』に、季節の農作物を使った作品づくりの連載をしていたんですね。この新聞を紹介してくれたのが、当時の稲作経営者会議の会長さんで、そのお宅では減反政策*のためにお米の代わりにビール麦をつくっていました。
都会育ちで麦が揺れる姿を見たことがなかったので、とてもきれいで印象に残っていました。
ただ、次に行ったときにはきれいに刈られていて。「今ごろ美味しいビールになってますね」といったら、そうではなく、「集中豪雨で全部倒れて使い物にならなくなったので処分した」ということだったんです。すごくショックだった。
その経験がきっかけで、捨てられる農作物を使ったアグリクラフトをはじめることにしました。小さい力で焼け石に水というのはわかっているけれど、捨ててしまうのはどういうこと? と思って。農業なんて全然知らなかったのに、そうやって仕事を通して社会勉強もできて、「仕事ってありがたいな」と思いました。
*減反政策とは……
戦後の日本における、米の生産調整を行うための農業政策である。 基本的には米の生産を抑制するための政策であり、具体的な方法として、米作農家に作付面積の削減を要求する。1970年から2017年まで、およそ50年近くにわたり実施された。(Wikipediaより)
――そのアグリクラフトが、今のご活動につながるような出来事はありましたか?
宮崎さん:あるとき、『全国農業新聞』の連載用にお米で鯉のぼりをつくったんですが、そのまま家に飾っておくのがもったいないと思い、当時銀座にあった『お米ギャラリー銀座』に「置いていただけませんか」と飛び込み営業をしたんです。人の良さそうな所長さんが出てきて、「いいですよ」とすぐに飾ってもらえました。
作品を搬出しに行ったとき、また所長さんが出てきて「どうぞどうぞ、お持ち帰りください」って。次の言葉を期待してたので、少しがっかりしながら家に帰ったら、電話が鳴って、取ったらなんとギャラリーの女性課長でした。
女性のお客さんの来場を増やすための企画を考えていたそうで、私の作品を見て「ずっとお会いしたかったんです」といわれたの。
――作品をご覧になって、わざわざ電話してくださったんですね!
宮崎さん:彼女がきっかけで、ギャラリーの年間ディスプレイを手がけることにもなりました。当時は減反政策で、お米がたくさん余っていたので、ギャラリーで展示していたのも、余剰農作物として捨てられる青刈り米を使用したアグリクラフトでした。
課長さんと話しながら、ただオブジェにするのではなく、日本の四季折々の年中行事を、現代の生活スタイルに合う表現でディスプレイしました。
銀座で展示していますというと、それが信頼になって、たとえばキャベツの産地でキャベツを使ったディスプレイを……と、相乗効果で全国各地に広がっていきましたね。
「日本トピアリー協会」の設立
一年間で150人ものデザイナーを育成
「アグリクラフト」の活動を広げるかたわら、以前書店で購入したトピアリーの洋書を紐解いて、独学でトピアリーの勉強をはじめた宮崎さん。積極的に営業し、カルチャースクールでの講座などご活躍の場がさらに広がっていきました。各地で仕事を広げていくため会社を設立し、トピアリーの本場の技術を学ぶため、渡米もされます。
宮崎さん:トピアリー用のフレームを並行輸入して、家族が寝静まった夜中に食卓で、『The New Topiary』を紐解き試行錯誤しながら制作を重ねました。トピアリーの講座をはじめると反応が良かったので、さらに技術を学ぶために、アグリクラフトでためた資金で、フロリダのディズニーワールドのトピアリーレクチャーに参加しました。
――現在はNPO法人「日本トピアリー協会」の代表理事をつとめていらっしゃいますよね。設立の経緯は?
宮崎さん:1999年に、大阪花の万博でトピアリーを提案した企業が中心となって、任意団体「日本トピアリー協会」が設立され、私は人材育成担当の理事として参加することになりました。ガーデニングブームが去ってからはしばらく活動休止状態でしたが、2011年に任意団体当時の理事の同意を得てNPO法人化し、代表理事に就任しました。
――日本トピアリー協会では、トピアリーデザイナーの育成にもつとめていらっしゃいます。
宮崎さん:カルチャースクールでトピアリーを教えていたときに、生徒さんから「先生になるにはどうすればいいですか?」という質問をいただきました。講座を持っていた高島屋さんに相談したところ、新規講座の開講には時間がかかるということ。どこか別のところに営業してみようとカリキュラムをつくっている最中に、偶然ご近所の花屋さんから、トピアリー教室の打診を受けるんです。花屋さんに相談し、その教室を「講師養成講座」として開講することにしました。
第一期生を育成中、任意団体「日本トピアリー協会」を設立しようと準備していた企画会社から「宮崎さんが講師養成講座の責任者になって、人材育成事業を協会にそっくり渡してほしい」と依頼されました。たしかに個人よりも、協会として講師の認定証を出したほうが生徒さんも喜ぶなと思い、第一期生として育成中だった生徒から有志を募り、上級講師を育成し、協会主催の講座を担当してもらいました。
いざはじめてみたら、他にトピアリーデザイナーの講座がないので、遠方から毎月来てくれる人もいるくらい人気の講座になりました。
最終的に、一年間で150人ものトピアリーデザイナーを育成しました。
――やってみたいという需要がたくさんあったんですね。
好きな仕事を続けられることのありがたさ
協会設立後のご活動はめざましく、モントリオールで開催された「第一回モザイカルチャー世界博」をはじめ、日本国内外で開催される大規模なガーデニングショーに企画・運営で携わったり、トピアリーやアグリクラフトの人材育成に努めたりと、日本国内にとどまらないご活動を精力的に続けられています。2012年からは東京農業大学の研究生として、トピアリーの歴史や系譜をまとめた論文執筆にも取り組んでいらっしゃいます。
――先ほどのお話で、同級生よりも早く結婚・出産されて後ろめたい時期があったとおっしゃっていました。でもその後のご活躍ぶりを伺うと、そんな時期があったなんて想像つかないくらいです。どこで吹っ切れたんでしょうか?
宮崎さん:うまくいかない時期って、少なからず周りに恨みごとをいっていたと思うの。それがいざ自分でやってみると、そう簡単に仕事って取れない。「何でもがんばればできる」と思っていたのに、無能な自分を突きつけられて、「もう完敗、そのとおりです」と、無能な自分を受け入れるようになりました。
仕事が忙しくなるとものすごく大変だけど、面白くて、すごくやりがいがある。それをできるのは、夫が食べることや子どもたちの学費について心配をかけることなく頑張ってくれているからだし、普通は「アメリカに行ってらっしゃい」なんてなかなかいってもらえない。
仕事が面白くなってきたときに、「一人じゃ絶対できないことだな」とはじめて周りへの感謝の気持ちが出てきました。アメリカに滞在中、一通り仕事が終わって、一人でカフェに入って座った時、ありがたくて泣けてきました。
「ありがたい」というのは漢字で「有り難い」と書くように、あることがむずかしいこと。やりたいことを本当にできるようになると、なんてありがたいことなんだろうってしみじみ思い、そこから吹っ切れましたね。
よりいっそう迷惑をかけないよう、でも無理はしないようになりました。
――これからやってみたいことはありますか?
宮崎さん:廃校になってしまった小学校などに、いつでもトピアリーを見られる「トピアリーカフェ」をつくれたらいいなと思っています。たとえば楽器会社や家電製品をつくる会社と提携して、「弾けるピアノのトピアリー」や「明かりが灯る街灯のトピアリー」などの新製品の見本が見られるようにするのもいいかもしれない。
そしてもう一つが「安心して働ける場所」にすること。白金あたりのマダムがわざわざお茶しに行きたいくらい素敵な場所なんだけど、実は運営に携わるのは、心を病んで社会復帰のリハビリをしている子たち。働きたいのに働けない理由がある子たちが、それぞれの能力を生かして、3時間でもいいから働ける場所をつくりたいですね。
人って変ないじわるさえされなければ、まっすぐ生きていける。皆働きたい、誰かのお役に立ちたいって思っている。このトピアリーカフェの前に立つと、歪んだ心の持ち主が、なんだかバリアを張られているみたいで入っちゃいけないような気持ちになる、そういう力強い場所をつくりたいですね。
――周りに感謝しながら、思いを持ってパワフルにお仕事に取り組まれてきた道のりのお話には、心の芯を鼓舞してくれるようなパワーをいただけました。
宮崎 雅代(みやざき・まさよ)さん
1990年株式会社ネバーランドインターナショナルを設立しトピアリーの制作、指導を開始。
設立当初から関わってきた日本トピアリー協会を2011年にNPO法人化し、代表理事としてトピアリー文化の普及に務める。ロゴマーク、キャラクターなどのオリジナルトピアリーの制作を得意とする。制作のみならず地域の資源を活かし、トピアリーを核とした観光振興や地域活性化事業も手がけるなど、国内におけるトピアリーの第一人者として活躍。
2008年よりEBTS(European Boxwood and Topiary Society)と交流をもち、会報誌TOPIARIUSに日本のトピアリー情報を寄稿している。また、世界各国のトピアリーガーデンを調査・研究するとともに、欧米、アジア圏の幅広いトピアリー研究者・庭園関係者・生産者のネットワークを持つ。
ここでは書ききれないくらい、たくさんのエピソードをお持ちの宮崎さん。宮崎さんのこれまでの軌跡については、ぜひ宮崎さん街代表を務める株式会社ネバーランドインターナショナルHPもあわせてご覧ください。
プシュッとビールの缶を開けるときが至福のひとときという、宮崎さん。週末にビールを片手に、撮りためた海外ドラマや映画を見るのがほっと一息つける時間だそうです。
●インタビュー・文 / 村田 あやこ
●編集・撮影 / 細野 由季恵