第41回目のゲストは、もじゃハウスプロダクツ代表・干潟裕子(ひがた・ゆうこ)さんです。
人と植物という2つの生き物が、のびのびと暮らせる家を設計する「もじゃハウスプロダクツ」代表の干潟裕子さん。住む人のキャラクターを植物との関係性に反映させ、人と植物どちらにとっても心地よい空間をつくるという、ユニークな家づくりをおこなっている干潟さんのご活動を、前・後編に分けてご紹介します。後編では、現在の活動に至るまでの原体験からもじゃハウスプロダクツをつくりはじめるまでのこと、今後の展望についてをうかがいました。
※京都在住の干潟さんと、オンラインでインタビューを実施しました。
*前編はこちらから
苦しい時、植物にそばにいてほしい人を手助けしたい
――「もじゃハウスプロダクツ」として独立、そしてリトルプレス『House “n” Landscape(ハウス・アンド・ランドスケープ)』を発行されるまで、干潟さんが「もじゃハウス」を追究するにいたった原体験について伺えますか?
干潟さん:複合的な要因が重なっています。まず設計の技術という側面からお話すると、私は大学時代、京都芸術短期大学のランドスケープデザインコースで、公園や日本庭園の設計を学びました。
卒業後は、建築緑化の技術を開発している大阪のメーカーにアルバイトとして3年弱在籍しました。仕事を通じて国内外のさまざまな建築緑化の事例に触れ、建物と植物とが交わっている状態で設計するという概念を知り大きなカルチャーショックを受けました。
――印象に残っている建物はありますか?
干潟さん:福岡にある「アクロス福岡」です。1995年にできた建物で、当時の写真を見ると今ほど鬱蒼とはしていなかったんですが、15年以上経って植物が育った姿を今見れているというのは、すごいことで。
▷アクロス福岡 公式インスタグラム 2018年の投稿より。桜の後ろにある建物が福岡県施設と民間施設が同居した官民複合施設「アクロス福岡」
干潟さん:当時勤めていた会社には樹木医もいて、アシスタントとして公園や街路樹の樹木の調査に同行することもありました。そうした経験を通して、植物と共生する建物を設計するために必要な勉強・資格・技術などもわかってきました。
ただ、当時はアルバイトでしたし、設計士として将来働いていくには経験を積む必要があるな、と。その結果、ランドスケープの設計を行う東京の会社で設計の仕事を本格的に始めることになりました。
――当時から、緑と一体化した建築を設計したいという思いがあったんですね。
干潟さん:はい、働き始めた当初からありましたね。転職先では、公園や駅前広場、公団住宅の外構設計などに関わりました。ランドスケープの設計士としての基本的な技術を身につけることができましたが、激務がたたって肉体的にも精神的にも限界が来て、退職せざるをえない状況になってしまいました。
――上京して住む環境も変わって、かつ激務となると、精神的に削がれてしまいそうですね。
干潟さん:そうなんです。これまでお話した設計の技術という軸とは別に、精神面・体験面としての軸から、もじゃハウスを追究する原体験についてお話すると、私は山口県で育ちました。住んでいた場所は舗装された道のある住宅街でしたが、車で20分くらい走ると山しかなかったり、ちょっと離れた山村では知り合いが農業をやっていたりと、今思えば都市と田舎のいいとこ取りな環境でした。
当時住んでいた家には広い庭があって、いろんな木が植えられていました。私の部屋は2階で、窓に向かって学習机があったんですが、目の前にソメイヨシノの樹冠が広がっていました。
――お花見ができますね。
干潟さん:そうそう、庭でお花見していました。クルミの木も植えられていたので、学校から帰ってきたらクルミの実を石で割って食べていました。そのために、叩き割りやすい石をキープしていたり。
借家だったので植えられた経緯はわからないのですが、古い建物だったので木もすごく大きく育っていましたね。ソメイヨシノとクルミ、あとはカキの木が庭のシンボルツリーでした。他にもグミの木や、キンモクセイ、モミジ、ナンテンなんかもあって。暮らしの中に、四季を感じられる植物がありました。
――小さい時から、大きく育った木が身近にあったんですね。
干潟さん:そうですね。一方東京では、徹夜も当たり前の激務で、かつ会社から家までドア・トゥ・ドアで20分。ビルや地下通路しか目に入らず風景がない状態でした。退職をした日、久しぶりに明るい時間に会社から荷物を持って新宿駅に向かいました。途中、サザンテラスの木の下に腰掛けたら、「ここに座ったことなかったな」って泣けてきてしまって。
息をつくまもなく働いていたので、もしこうやって木を見たり、木の下で過ごす時間が持てていたりしたら、辞めずに済んだかもしれないと思ったんです。
その時、走馬灯のように子どもの頃の植物との時間が頭の中に流れてきました。苦しい時に植物にそばにいてほしいと思う人は、私だけじゃないかもしれない。そんな人たちを設計士として私なりに手助けできるんじゃないか、と考えて。思考と技術とが少しずつ混ざったその頃が、もじゃハウスを目指すスタート地点だったのかな、と思います。
建築と植物とを結びつけるパイプ役に
――退職後はどうされたんですか?
干潟さん:以前住んでいた京都であれば、街中でも山や川が見えるのでやっていけそうと思い、京都に戻ることに。
その後、建築設計の会社で10年ほど働きました。公共建築をメインに手掛ける会社で、外構設計者がいなかったこともあり、それまでのランドスケープアーキテクトとしての経験を生かし外構設計を担当し、かつ建築設計の補助もするという二足のわらじを履くことになりました。
――外構と建物と、両方を見られるようになったんですね。
干潟さん:そうなんです。建築設計について知ると、たとえばアクロス福岡のように「素敵だな」と思うだけだった建物を、自分で実現させる可能性が見えてきて。独学で建築士を受験するには7年の実務経験が必要なので、そこで実務経験を積んで、在職中に二級建築士の資格を取得しました。
ただ、緑化建築自体の需要が少ないし、会社員として設計士をしていても「もじゃハウス」には専念できないというのも分かってきて、独立を決めました。たとえば会社で保育園の設計をしていた時、廊下をススキ畑にするといったプランを上司に提案したところ、「管理が大変」「窓から土が入る」など社内でストップがかかってしまったこともありました。
懸念事項は設計で工夫すればいいし、お施主さまももしかしたらそういう提案が好きかもしれないけれど、会社員の立場では提案すら難しいこともある。
――緑化建築自体あまり浸透していないというのは意外です。建築だけでなく植物の知識も必要になるので、それが担える人材を会社として育成するのも大変そうですよね。
干潟さん:建築と植物って、全然ジャンルが違う世界なんです。面積が小さい場合、何の木を植えるかを1、2本考えるぐらいなら建築士がやってしまう場合もありますが、ホテルなどの大規模な面積の植物計画はそう簡単にはいきません。植物群がどう育つかを考えるには相応の専門知識が不可欠です。
また、植物を植えることで水漏れや雨漏りにつながる可能性を恐れてリスクのあることは避けよう、と設計する側が考えるケースもあります。
他にも、「日本人は、植物が茂っていると手入れをしていないだらしない家だと思う傾向があるので、もじゃハウスのような家は受け入れられづらい」といわれたこともありました。きっちり垣根を剪定して整えている状態が、外部に対しての正しい姿勢という美意識がある、と。
――個人的に緑がある状況は生理的に心地いいですし、そういう家に住みたいと思っている人も実は多いのではと思いますが、つくり手側が二の足を踏んでしまうケースもあるということでしょうか。
実現するための技術を磨きつつ、まずは「もじゃハウス」自体を知ってもらうという、種を蒔く活動も結構重要になってきそうですね。
干潟さん:そうなんです。「樹木医でもあり、建築士でもあり、ランドスケープアーキテクトでもある。その技術を一つに統合したらこういうものができるんだよ」ということをアピールすることで、お客さま側にも、こういう建物を実際に建てられる人がいるんだと分かってもらえばいいなと思いますし、建築側のことも理解しながら植物との暮らしを提案できる技術者として、建築士の方の相談役にもなりたいですね。
――これから、もじゃハウスプロダクツとして取り組んでみたいことや野望はありますか?
干潟さん:まずはとにかく、もじゃハウスを建てさせてください! ということ。屋根にタンポポを植えた「タンポポ・ハウス(東京都国分寺市)」を設計した建築家の藤森 照信(ふじもり・てるのぶ)さんも、一軒目のお施主さまはなかなか見つからなかったという話を聞きました。もじゃハウスも覚悟はしていますが、将来実物を見たいので、そのためにできることを今やっています。
あとは、もじゃハウスの模型も毎年つくり続けていて、もじゃタウンのまち並みができるほど増えてきたので、コロナが収まったら関西だけでなく東京などでも展示がしたいですね。実は、模型のプランを詳しく紹介する書籍の企画も動いていて、編集の方は決まってるんですが、版元が決まらない。うちで出してもよいという出版社の方、連絡よろしくおねがいします!
――もじゃハウスっていう世界があるんだよっていうのを伝えて、建てて。
干潟さん:今は多様性の時代なので、人間一人と樹木のふたり暮らしという選択肢もあるかもしれないし、そういう生き方も素敵だなと思います。私の技術で、そんな暮らしを叶える手助けになればいいですね。
夜ご飯のときはご夫婦で必ず一緒に食卓について、その日あった出来事を話すという干潟さん。いつ何が起こるかわからないので、日常の時間の積み重ねが一番幸せ、という言葉が印象的でした。