第54回目のゲストはイタリアで修行を積み、陶芸家として活躍されている我妻 珠美さん。ご自身の工房「COCCIORINO(コッチョリーノ)​​」ではイタリアのまち並みをイメージした土鍋を制作されています。現在は、展覧会をはじめ、イタリアと日本を行き来しながら地元の人々と土鍋料理を囲むプロジェクト「旅する土鍋」を手がけています。現在の作家活動の背景にある思いについて、お話を伺いました。

我妻 珠美

武蔵野美術短期大学(工芸デザイン・陶磁器専攻)卒業後、和洋食器の卸会社に入社し、デザイン・店舗ディスプレイを担当。週末は、長野県伊那市の友人宅の窯で陶芸を続ける。その後、マーケティングの仕事に従事しながら、フィレンツェ陶芸工房視察Guido De Zan陶芸工房に弟子入り。99年の帰国後は、自宅兼独立工房(東京都)に窯を設置しグループ展、個展などを中心に陶芸作品を発表する。2009年に、土鍋の誕生。2013年からは 「旅する土鍋」プロジェクトをスタート。


器を通して「人が集まる場」をつくる

この日お話を伺ったのは、我妻さんのご自宅兼工房。窓の外のお庭では、挿し木や小さな鉢植えから大きく成長したという植物たちが、気持ちいい緑陰を生み出しています。とうもろこしご飯に、お豆腐のサラダに。我妻さんが土鍋でつくってくださったお料理を囲んで、これまでの陶芸家としての道のりについて伺いました。

──陶芸の道を志したきっかけを伺えますか?

我妻さん:中学校の修学旅行で、福島県にある会津本郷焼の工房を訪ねたとき、はじめて陶芸家という職業があると知ったんです。その後、美大へ進学し、陶芸を専攻しました。菊練りやろくろの使い方といった基礎的なテクニックも学びましたが、わたしにとって大学は、“土から器をつくって何をするか?” を考える場所となりました。

そして、卒業制作でつくったのは「パーティー皿」。“人が広場に集まって一緒に食事をする”ときに使うような、大皿と小皿のセットをつくりました。「人が集まる場」というコンセプトは、いまも大切にしているテーマです。

──大学を卒業されてからは、どのようなご活動を?

我妻さん:器の卸会社に勤めました。陶芸だけでなくガラスや木工など、職人さんがつくった器がどうやって世の中に流通していくのかという、商売の原点が知りたくなったんです。

その次に勤めたのはマーケティング会社です。ライターとして各地を忙しく飛び回り、マーケティングリサーチのためいろんな業界のお話を聞くことができました。これらの経験はコッチョリーノの活動にも活きていますね。

この間も陶芸は続けていましたが、当時勤めていた会社に、人生の先輩のような女性がいて。「いつか独立するんだよ、どんな経験も絶対に無駄がないから」と、ずっと応援してくださっていましたね。

──身近に背中を押し続けてくれる方がいたのは心強いですね。

陶芸の修行のためイタリアへ

その後、マーケティングリサーチのお仕事と並行して7年間、イタリアで修行を積んだ我妻さん。イタリア時代のお話を伺いました。

──陶芸を修行する場としてイタリアを選んだ理由を伺えますか?

我妻さん:イタリアの陶芸家 Guido De Zan​​(グイド・デ・ザン)の作品が大好きで、彼の弟子になりたいと思ったんです。ただ、はじめて工房を訪れ英語で「弟子にしてください」と伝えたところ、「僕は英語がしゃべれないから、語学を勉強してからおいで」と断られてしまいました。

それならばと、今度はフィレンツェの語学学校でイタリア語を学んで再び訪れたところ、なんと「僕は弟子をとっていないんだ」といわれてしまったんです(笑)。「どうすれば弟子になれるでしょうか」と食い下がると、困ったような雰囲気で「じゃあ、イタリアでつくった作品のポートフォリオを持ってきて」と伝えられて。

我妻さんのお部屋にある、グイド・デ・ザンさんの作品である花瓶『Vaso grès (1998)』

──諦めなかったんですね。

我妻さん:そうなんです。そこで、フィレンツェの陶彫刻家・HERMANN MEJER​​(ヘルマン・メイヤー)の門を叩き、ポートフォリオをつくるために制作をしました。そうやって何度もアタックしているうちに、ようやくインターンとして工房に入れてもらえることになったんです。

──念願叶って師匠のもとで、陶芸を学べることになったんですね。陶芸という視点で見ると、イタリアはどういう場所でしたか?

我妻さん:日本と同じ火山国で地形が似ているので、各地に陶芸を産業とするまちがあるんです。一方で日本ほど師匠と弟子というような縦社会の関係は少なく、花や食、衣、住といった垣根を超え職人たちが集まる文化がありました。そこも、学生時代から大切にしていた「集う」というコンセプトに通ずるところがありました。イタリアなら器の中身もおもしろくできるんじゃないか、と思ったんです。

──イタリアでは、みんなでテーブルを囲んで食事をすることはありましたか?

我妻さん:昼も夜も、週に一度は人を集めて食事していましたね。それも家族に限らず、友人や打ち合わせでやってきたアーティストなど、さまざまな人と、テーブルを囲みました。イタリアでは、まさにそれが見たかったんです。

──暮らすことと働くこと、食べることが地続きなんですね。

イタリアの風景を土鍋に刻む

イタリアの修行を経てご自身の工房を開き、本格的に陶芸家としての活動をスタートした我妻さん。現在、中心的なプロダクトとして制作されている土鍋について伺いました。

──土鍋をつくってみようと思った背景を伺えますか?

我妻さん:イタリアから帰ってきた当初は、学生時代の原点に戻って食器をつくりはじめましたが、お茶碗もコップもパーソナルに使うもの。大皿も、ヨーロッパのようにパーティーをしない日本では、あまり需要がありません。

いろいろと考えているうちに「そうだ、日本では鍋をつつく文化があるな」と、土鍋をつくりはじめました。

──土鍋はみんなで集まって食べる場にあるイメージです。まさに我妻さんが大切にされる「集う」というコンセプトに通じますね。

我妻さん:土鍋をつくりはじめた当初は、冬の鍋として使う方がメインでした。陶芸の展覧会は秋や冬が多く、一般的に「夏は土鍋が売れない」といわれています。でも、オールシーズンで土鍋が必要だと思ってもらえるよう、あえて夏に展覧会を開催したり、そうめんやデザートといった冷たいメニューと一緒に発信したりしはじめました。

「レモンパスタ」、「プリンいちご乗せ」、「ジャガイモ冷製スープ」、「庭のプチトマトパスタ」。我妻さんが発信されているレシピには、土鍋の常識を覆す驚きの土鍋料理の数々が。 (写真提供:我妻さん)

──土鍋の蓋のつまみが建物の形をしていますが、これにはどのような思いがありますか?

我妻さん:じつはイタリアのオマージュです。ミラノやトスカーナのまち並みは、この持ち手のように縦長の建物が並んでいました。アルプスの山のオマージュで、つまみが山の形をした土鍋もあります。

──お鍋に描かれた線も印象的です。

我妻さん:「足跡」と「根っこ」を刻んでいるんです。1992年〜1999年までの7年間、いったりきたりではありますがイタリアで修行して。長くいたものの結局向こうで窯を買って永住することはできず、根無し草でした。だから、イタリアで生やせなかった根っこを作品の上に生やすことで、「足跡だけは残してきたぞ」という思いを込めています。

ご自身の手元からお客さまへ渡った作品も、「根っこ」を見るとご自身の作品だということがわかるのだそう。

──土鍋のデザインには、そんな思いが込められていたんですね。

土鍋が使われるシーンを広げたい

ミラノにて、師匠とその友人と囲んだ土鍋料理「おでん」。(写真提供:我妻さん)

──イタリアの師匠・グイド・デ・ザンさんとは、帰国後も交流が続いているんですか?

我妻さん:修業を終えて日本に帰国するとき「独立して10年うまくいったら、また帰っておいで」といってくれて。帰国して15年ほど経って子育てが落ち着いた頃に「15年も続いたよ!」と伝えにいきました。喜んでいましたね。土鍋を持っていったら本当に嬉しそうにしていました。

そこから2019年までは毎年、大きなスーツケースに土鍋をいれてイタリアに行きました。現地の方に土鍋を使った家庭料理をつくっていただき、そのお返しに私も土鍋で料理をふるまうという「たびする土鍋」プロジェクトのはじまりです。

ブックレット『それでも地球はまわる -旅する土鍋ものがたり-(2014)』9ページより

──イタリアの方は土鍋をどういうふうに使うのか、気になります。

我妻さん:ボウル代わりにしてパスタを混ぜたり、ピザ窯に入れてパンや肉を焼いたり。作家の発想を上回る、縛られない使い方をしてくれました。

そのお返しとして、私も親子丼やちらし寿司などをつくってふるまいました。

カラブリアにて、マンマのトマトパスタ。「旅する土鍋プロジェクト」の様子(写真提供:我妻さん)

──土鍋を通して、国を超えて「集う」場をつくってこられたんですね。これからの作品づくりについて教えてください。

我妻さん:じつは少し前に、私の工房の窯が壊れてしまったんです。もともと窯の寿命があることは知っていたので、壊れたらやめて違う仕事をしようかなと思っていました。

ところが偶然にも同じタイミングで師匠の窯が壊れて、年齢的にもう陶芸を辞めるのかなと思ったら、なんと彼は買い替えたんです。いま70代半ばですが、まだ現役です。

都心の閑静な住宅街にある、我妻さんが長年制作を続けた工房を見せていただきました。左手前が一児の母でもある我妻さんが「次男なんです(笑)」とおっしゃるほどに大切に使われてきた窯。

──師匠はまだまだ陶芸を続ける、と。

我妻さん:それを見て、私もまだまだやめられないなと思いました。あとどれくらい続けられるかはわからないですが、森のほうで小屋でも建てて、新たな環境で陶芸を続けようかな、と。師匠には若者だとか年寄りだとか、年齢の概念があまりないようです。それが彼の生き方や作品に、もろに現れています。​​

──つくることと生きることが、密接につながっているんでしょうか。

我妻さん:イタリアで学んだのは、まさにそんな姿です。イタリアから帰ってきてもずっと、生き方の先輩として背中を追いかけていますね。

15年ぶりの再会。ふたりの信頼関係が垣間見える、一枚。(写真提供:我妻さん)

──これからも我妻さんの作品が見られるのが嬉しいです。最後に、これからのことを教えてください。

我妻さん:制作と暮らしの拠点を、東京から森のある場所へと移す準備を進めています。人が集まって食べる場を大切にするということは変わらないコンセプトとして持ちつつ、たとえば地場産の食材を使った料理を紹介することで、土鍋を買ってくれた人に地域の魅力をお伝えするなど、土鍋で料理されるもの自体についても発信していきたいと思っています。

また、土鍋が使えるシーンを広げていきたいですね。生活様式は変わりつづけています。例えばお客さまの中には、IH調理器しかついていない方もいて、それだと土鍋は使えませんと諦める方もいて。そこで、現在IH対応の『IH炭かまど®︎』を製造している東大阪のものづくりの会社「株式会社オーシン」さんに出会いました。

実験を重ねた結果、コッチョリーノの土鍋にも対応する製品だとわかり、“コッチョリーノエディション”として特別販売スタイルを取ってもらったんです。

IH調理器と土鍋の間にあるのが炭板。コラボレーションした商品「IH炭かまど COCCIORINO Edition」には、コッチョリーノのマークが印字されています。

土鍋=火というイメージがありますが、こうやってIHにも対応していけば、もっと手軽に人が集まることにもつながっていきます。そうやってさまざまな暮らしにバランスよく対応していけるといいなと思っています。

──ありがとうございました。

土鍋には規格となる口径サイズがあり、市販の蒸し器と合わせて使うことも可能です。

窯を開けて作品を取り出す瞬間が至福のひととき、という我妻さん。「どうなっているかな……」と緊張しながら蓋を開けて、きれいな色が出たところを見ると、思わず胸が熱くなるそうです。

●インタビュー・文 / 村田 あやこ
●編集・撮影 / 細野 由季恵