熊澤 茂吉
ゲスト
熊澤 茂吉
湘南に残る唯一の酒蔵、熊澤酒造株式会社の代表取締役社長。 茅ヶ崎生まれ。湘南に残る唯一の酒蔵、熊澤酒造株式会社の代表取締役社長。大学卒業後、アメリカを放浪。24歳で帰国して熊澤酒造を継ぐ。当時の下請けとしての立場を脱するため、ビール製造やブランディングを確立。誰もが訪れやすいオープンな熊澤酒造をつくりあげた。
村田 あやこ
記事を書いた人
村田 あやこ / Murata Ayako
ライター
お散歩や路上園芸などのテーマを中心に、インタビュー記事やコラムを執筆。著書に『た のしい路上園芸観察』(グラフィック社)、『はみだす緑 黄昏の路上園芸』(雷鳥社)。「散歩の達人」等で連載中。お散歩ユニットSABOTENSとしても活動。
細野 由季恵
撮影・編集した人
細野 由季恵 / Hosono Yukie
WEB編集者、ディレクター
札幌出身、東京在住。フリーランスのWEBエディター/ディレクター。エントリエでは 副編集長としてWEBマガジンをお手伝い中。好きなものは鴨せいろ。「おいどん」という猫を飼っている。

第67回目のゲストは、明治時代に茅ヶ崎で創業した湘南唯一の酒蔵「熊澤酒造」六代目蔵元の熊澤 茂吉(くまざわ・もきち)さんです。

「日本酒は、衰退産業だ」といわれていた24歳の頃、廃業寸前だった熊澤酒造を継いだ熊澤さん。酒販組合の下請けとしての酒造りから脱却して、独自につくった日本酒「天青」や「湘南ビール」といった質の良い独自商品は、今や全国でも知られる存在となりました。

本拠地でもある茅ヶ崎市香川の醸造所は、カフェやベーカリー、レストラン、ギャラリーなどが併設された緑豊かな空間で、各地から人が集まる人気の場となっています。熊澤さんに、熊澤酒造という「場」をつくる上で大切にしてきたことや、100年後、200年後を見据えた視点について、お話を伺いました。

造り酒屋の息子としての自意識に気づいた

──小さい頃から、酒造のお仕事は身近に感じていらっしゃいましたか?

熊澤さん:酒蔵で生まれ育ったので、小さい頃は敷地内に住んでいた従兄弟と鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいました。敷地内にはいつもお酒の匂いが漂い、すぐそばに働いている人がいる特殊な環境で、冬になると酒造りで慌ただしくなったりするのも肌で感じていました。

当時、学校には大工や魚屋の子どもは何人かいましたが、造り酒屋の子どもは私だけでした。「酒蔵を継ぐのね」といわれながら育ったので、否応なく意識はしていましたね。

熊澤酒造の入り口で迎えてくれる植物が印象的な風景。しかし、熊澤さんが入社した当時、敷地内はコンクリートで覆われていて、下町の町工場のような雰囲気だったそう。

──いずれ熊澤酒造を継ぐということは、子どもの頃から意識されていたんでしょうか?

熊澤さん:実は熊澤酒造はおじが引き継ぎ、父は、僕が生まれる前にやめ、テニスクラブを創業しました。ですから、造り酒屋の息子でもあり、テニスクラブの息子にもなったんです。当時、造り酒屋は衰退産業で、どちらかといえばテニスのほうがメジャーでした。父からも「好きなことを仕事にすればいいよ」といわれて育ちましたね。

──その後、熊澤さんが熊澤酒造を継ぐことに決めたのは、アメリカ滞在中の24歳のときだったと伺いました。アメリカには、将来の道を探るために行かれたんでしょうか?

熊澤さん:僕が大学を卒業したのはバブル時代の頂点に差し掛かる頃で、社会全体のお金に関する価値観が麻痺していることを肌で感じていました。浮き足立った日本から抜け出したいという、本能的な危機感を抱き、留学という形で一度日本から離れることにしました。アメリカへ行く際は家業を継ぐことは考えてはおらず、父のように自分の好きなことを仕事にしたいと思っていました。

熊澤さんの代わりに写真に映ってくれた、熊澤酒造を見守る白熊さん。

──そこから熊澤酒造を継ぐまでには、どのような心境の変化があったのでしょうか?

熊澤さん:しかしアメリカ滞在中、父の会社を一部たたむという連絡がありました。その際「慢性的に赤字だった熊澤酒造もたたんで、土地を売却しようと思っている」という連絡があったんです。その話を聴いたときは、どこか遠い世界の話で実感がわかず、「しょうがない」と思ったくらいでした。

でも、当時アメリカで日本酒を広める活動をしている日本人の方と偶然出会い、家業の話を相談したところ、「日本酒業界には未来がない。バブルが崩壊した日本でやっていくのは難しいだろう」といわれたんです。

赤の他人に「未来がない」といわれたときにはじめて、自分の中で封印していた造り酒屋の息子としての自意識に初めて気づき、いてもたってもいられず帰国し、家業を継ぐことにしました。

自分たちの手でコツコツつくり上げてきた熊澤酒造の世界観

熊澤酒造の造る日本酒「吟望天青 特別純米 (1800ml)」「千峰天青 純米吟醸 (1800ml)」

熊澤さんが熊澤酒造を継いだ当時、自社ブランドではなく酒販組合の下請けとしての酒造りがメインで、伝統的な徒弟制度も残る閉鎖的な雰囲気だったそう。
そんな中で熊澤酒造は、地域の誇りになるような独自商品をつくって生き残るべく、それまでの出稼ぎ杜氏(とうじ)ではなく通年で職人を雇い、並行して醸造技術を活かしたビール造りをはじめました。
そうやって生み出された日本酒「天青」や「湘南ビール」といった質の良い独自商品は、各地で評判になりました。

*徒弟制度……中世の商工業者組合ギルドにおける徒弟制度は、技術を習得するための訓練システム。徒弟は親方の家に住み、一定期間修業して親方となる。日本では江戸時代以降、商工業者の間で実施された。

──熊澤酒造さんは、お酒そのものはさることながら、商品のパッケージや、レストランを始めとする一般の人にも開放された空間も魅力的です。こうした熊澤酒造全体の世界観も、当初から意識されていたんでしょうか?

熊澤さん:最初は当然、ブランディングの専門家にお願いするようなお金はないので、「天青」のロゴも活動を応援してくれていた文筆家の方に無償で書いていただいたり、見様見真似でつくったロゴを同じ年で駆け出しのデザイナーにデザインしてもらったりしました。ですが結果的に、どこかへ丸投げせず、自分たちの手で少しずつつくりあげたことで統一感が生まれたのではないかと思います。

──計画ありきで進めるというよりは、自分たちの感覚にフィットするものを大事に、少しずつつくり上げていかれたんですね。

熊澤さん:たまたまうちが新潟や福島のような酒処ではなく、湘南の酒蔵であるということも影響しています。湘南というのは、日本酒の背景として全国に発信していくにはあまり武器にはなりません。一方、人口は多いものの、酒蔵はうち一軒しかない。商品に酒処としての背景が乗らないのであれば、商品だけではなく世界観を空間で表現できれば生き残っていけるんじゃないかと考えたんです。また僕自身も、製造メーカー的に商品を生み出すよりは、空間として表現するほうが好きで得意だったということもあります。

敷地内を案内していただく筆者・村田

──昔から使われてきた道具や建具が生かされた空間も、とても居心地良く感じます。いまの熊澤酒造の空間の大切なエッセンスになっている古き良きもの、手触りのある古道具なども、もともとお好きだったんでしょうか?

熊澤さん:好きという以上に、病に近い状態です(笑)。息子が小さい頃、暑いから扇風機を買ってきてといわれたことがあって、散々探して買った扇風機が、70〜80年前の扇風機でした。扇風機を買うとなると、電気店ではなく骨董市に行ってしまうんです。息子から、「お父さん、古ければ何でもいいっていうわけじゃないんだよ」という名言をもらいましたね。

今はTPOをわきまえていますが、時間が経って朽ちていくものには、異常な愛着を覚えてしまうんです。

──それは、小さい頃から代々受け継がれてきた酒蔵の中で育ったことも影響しているんでしょうか。

熊澤さん:造り酒屋というのは古いものを大事にしている家に生まれるので、その反作用で、実は近代的で新しいもの好きという人が多いんです。祖父はまさにその典型で、今でいう古民家で生まれ育ったんですが、僕が小学校の頃、その家を壊して最新式のプレハブに住んでいました。

古いものを壊して新しいものをつくる祖父だったので、小さい頃、家でよく古い家具や道具が燃やされていて。そうしたものを見るうちに、捨てられたり壊されていくものへの郷愁が生まれてしまいました。

──そんな原体験があったんですね。

自然盆栽のように会社組織を育てていく

現在、熊澤酒造では、敷地の一角に“森のようちえん”のスタイルで子どもたちの自主性を大事にする保育の場「ちがさき・もあな保育園」や、湘南地域の耕作放棄地を復活させ、そこで取れた米で酒造りを行う「酒米プロジェクト」など、長い時間をかけて豊かな未来をつくっていく活動にも取り組んでいます。
そんな熊澤酒造の世界を構成する取り組みのなかでも、さまざまな人が参加することができる“暮らしをちょっとだけ楽しくする教室”「暮らしの教室」について伺いました。

(写真提供:熊澤酒造)2023年6月に筆者・村田がゲストとして登壇した「暮らしの教室」の一幕

──「暮らしの教室」は、どのようなきっかけで始まったご活動なんでしょうか?

熊澤さん:この活動を一緒に進めている「リベンデル(茅ヶ崎市矢畑183)」という会員制の農園&イベントスペースの熊澤弘之くんが、地元の中学生向けに、ユニークな仕事に取り組む大人を紹介する授業を受け持つことになったことがきっかけです。同じく一緒に活動している、NPO法人「西湘をあそぶ会」の原 大祐くんと僕をゲストとして呼んでくれたのがはじまり。授業の帰りに3人で、喫茶店で打ち上げをしたときに出たアイデアが、「暮らしの教室」でした。

昔の農村は、いい意味でも悪い意味でも居場所として機能していましたが、高度経済成長期に伴い、会社が村社会の集落を代替するようになりました。24時間働いて、土日は上司とゴルフに行って、家には寝に帰ってくるだけ。茅ヶ崎で出会う人の大半も、東京に仕事へ行って、茅ヶ崎には寝に帰る場所として住んでいる人たちでした。
しかしバブル崩壊後はそれが宙に浮き、自分の価値観が合う人達と地域で出会う場を欲している人は増えてきました。

──会社基準ではなく、徐々に自分の価値観や地域での暮らしに重きを置く人が増えてきたんですね。

熊澤さん:そんな中で、自分の価値観の物差しを見つけられると結構幸せに生きられるんじゃないかということで、ユニークな活動をしている人たちをゲストに呼んで、こういう価値観もあるんだと刺激を受けて、新しいものを生み出せる場を提供できればいいなという思いで、はじまった活動です。2011年から始めて、いままでで120回くらい開催しました。

──つまり120人ほどの講師と関わってきたんですね。その出会いの中で、熊澤さんご自身のお仕事や生活に生かされた視点はありますか?

熊澤さん:結構多いですよ。今でも会社経営の一つの軸になっているのは、2018年に講師で来てくださった盆栽家・加藤 文子さんの視点です。加藤さんは、江戸時代から代々続く盆栽家の家で育った方なんですが、技術的につくり込んだ盆栽ではなく、植物が自然に育っていく様を愛でる自然盆栽を提唱した先駆者です。 彼女の個展を熊澤酒造のギャラリー「okeba gallery & shop」で行った際、2週間ほどの展示期間中に毎日外に出して水やりしていると、その間に違う種が入ってきて、本来はいなかったものが生えてきたり、反対にもとの植物が枯れちゃって、枯れた部分からまた違うものが出てきたりと、最初の状態から少しずつ変化していくんです。そうした盆栽に、熊澤酒造と通ずるものを感じたんです。

──どのような点で、共通点を感じたのでしょうか。

熊澤さん:たとえば、大型の商業施設のように、もとあったものをすべて更地にして、一斉に数百店舗の箱をつくってしまうようなことには、どこか違和感を抱いてきました。

そうではなく、地形をそのまま活かし、人も空間も、自然発生的な出会いで生まれていった場所に美しさを感じる。熊澤酒造もそういった思いでつくってきました。

加藤さんの自然盆栽を知ったことで、自分自身がやってきたことを再確認できたんです。

熊澤酒造敷地内にある「okeba gallery & shop」には、湘南エリアの作家作品やヴィンテージ家具・古道具が販売されている。

──熊澤酒造さんのお庭そのものも、実生で生えた木が大きく育っていたり、石畳の隙間から草が芽吹いていたりと、まさに自然盆栽が育つような雰囲気を感じます。

熊澤さん:人の面でもそうですね。新卒で一斉に優秀な人材を採用して一律の社員教育をするのではなく、たまたま集まったメンバーがそれぞれの得意分野や特徴を活かして、化学反応によって変化していったり、新しい部門が自然と生まれていくのが美しいなと思っています。そうやって盆栽を育てるような感じで、会社組織をつくっていきたいですね。

──まさに偶然やって来た種が鉢の中で自然と育っていく様子を楽しむような過程ですね。これから100年後、200年後を考えた時、この場所や熊澤酒造がこうなるといいなと思い描いていることはありますか?

熊澤さん:一番うれしいのは、僕がいなくなった後でも「熊澤酒造がこの場所にあってくれてよかった」といわれることですね。最近、鎌倉に新しいお店を出したんですが、その建物は鎌倉では誰もが知っている廃墟でした。生まれた頃からずっと廃墟の状態で、いずれ壊されてまうだろうけど、愛着があるから、誰かうまく活用してくれる人がいればいいなと思われていた場所です。

お店がオープンした際に一番多かった声が、「熊澤酒造が来てくれた。ありがとう」という声でした。まさに、理想的な店づくりのあり方でしたね。熊澤酒造は、湘南地域で唯一の酒蔵。これから100年、200年経って、僕の孫やひ孫が「湘南地域は何故か素敵だよね。その大きな要素は、おじいちゃんがつくった熊澤酒造があったおかげだ」といわれることが、一番の理想ですね。

大好きなものに囲まれたご自宅で、家族が寝静まった後に熊澤酒造のお酒を飲むときが至福だという熊澤さん。その日の気候や食事、気分によって日本酒を選んでいるそうです。